SNSを眺めていると、日々あちこちで様々なバトルが繰り広げられている。
何かについて人と議論できるほどの情熱には感心するが、中にはただの誹謗中傷もある。
そんなものは無視すればいいのだが、優しい性格なのか反応する人もいる。
そこからいつの間にか当事者以外の人達も参加した、合戦もしくは集団リンチになっていく。
不毛で、悲痛で、悲惨だ。
「好き」と「嫌い」
僕が何より不思議なのは、自分が好きなものを肯定するために、別の比較対象を叩く行為だ。
例えば、好きなアーティストの良さを示すために、別のアーティストを比較して蔑む、みたいな。
よくわからない。
特に「好き」「嫌い」という感情が絡んで暴走する人が多いように見える。
自分が好きなものに対して、自分が好きであるということに対して、自信が持てないのだろうか。
ハッキリ言って、自分の感情の正しさなんて、他人に肯定してもらうことに意味はない。
逆に言えば、他人に否定されても関係ない。自分の感じ方が全てだ。
だから、無駄に他を蔑んで、好きであるもの、好きであることを正当化しようとする行為には意味がない。
好きなものは好きなのである。
そして、他人の「好き」「嫌い」に理屈をつけて否定することも無意味だと思う。
批判するとき、されたとき
自分が嫌いと感じたものを批判することがダメってことはない。
ただそれよりは、好きなものについて語る方が幸せな時間になると思う。
もしかすると、そうすることで自分が好きなものに興味を持ってくれる人が増えるかもしれない。
それはきっと、嫌いなものを批判するよりずっと生産的で有意義な行為ではないだろうか。
せめて批判するときは、自分がなぜ批判しようとしているのか、一度冷静になって考えたい。
そして、批判がただの否定にならないように注意したい。
実際、感情的になるとこの塩梅は難しい。
反対にもし自分が批判されたとき、考えたいのは批判者の立ち位置だ。
なぜこの人はこんな発言をするのだろうかと理由を考えるうちに、きっと冷静になれる。
冷静になって相手を理解しようとすれば、違う考えの人を受け入れる姿勢ができるのではないだろうか。
SNSでは違う考えの人を簡単に拒絶できるので、宗教団体的な閉ざされた輪が生まれやすい。
そこは敵が存在しない居心地の良い空間かもしれない。
しかし同時に、偏った考えに陥りやすい空間であることに注意しておくべきだと思う。
同じ考えの人達だけで集まると、自分が暴走したときに止めてくれる人がいないかもしれない。
可能であれば、幅広い考えを受け入れられるだけの多様性を持った空間に身を置いておきたい。
関わると危ない人達
ただ、SNSに限らず、下のような人達を相手をするときは注意しないといけない。
- 自分の考えしか認めずに、それを他人に強要してくる人達
- 罵詈雑言で攻撃してくる人達
1については、違う視点を提供してくれるのはありがたいが、他人に強要するのはやり過ぎだ。
他者を認めず、自分が絶対正しいという傲慢さは、攻撃性を助長する。
極左や極右と呼ばれる人達は、そんな多様性がない人達の典型だと思う。
参考になるところがあれば、お互いに取り入れていけばいいのだ。
2については、そもそも相手にするべきではない。
精神的に成熟していない人達を相手にすると、多くの労力と苦痛を伴うことになると思う。
僕らの長くも短い人生において、そこに費やすほどの時間は余っていないはずだ。
さいごに
一つ前の日記もそうだけれども、最近のニュースやTwitterなどを見て感じたことを書きはじめたら随分と長くなった。
自分で思ってた以上にモヤモヤしていたらしい。
僕はSNSで他人と言い争いなんてした憶えがない。
そもそも対面でもほとんどない。
ベースには「ひとはひと」という考え方が強くあるからだと思う。
それはもしかすると、あまり健全ではないのかもしれない。
ここで書いたことは、そんな考えを持った人間の絵空事なのかもしれない。
ただ、そんな考えを持った人間だからか、他人が変わることへの期待値が低い。
SNSの情報開示の敷居を下げれば、言葉の暴力はある程度減るかもしれない。
しかし、それでも完全になくなるとは思えない。
制御できない他人に期待するよりは、自分の受け取り方や接し方を変えることで防げる苦痛も多いのではないかと思う。
個人に対して誹謗中傷を繰り返しているのは、感情や炎上に反射的に反応している人達だ。
それはもはやただのボットではないだろうか。
ボットによる自動投稿を深刻に受け取る必要なんてないのだ。
例えどんな暴言を受けたとしても
「あらそうですか。」
と、一言で片付けられる距離感で、SNSとは付き合っていきたい。
おわり。